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2008年 10月 27日

父の他界

父が亡くなり、しばらく実家の三重で過ごしておりました。決して仲の良い家族ではなかったけれど、父がガンと分かってからはなるべく父に良い思い出を残してもらおうと過ごしてきた5年間。人一倍死を恐れていた父が5年もその恐怖と闘ってきたことに「がんばったね」と言ってあげたい、そんな気持ちです。
それにしても田舎の葬儀って本当に大変です。親戚縁者が多いのでそれなりに盛大な式(呼ばなきゃならない人が多いんです~!あまりにも多いんです~!)なのですが、その親戚の人間関係がドロドロしすぎて気分が悪くなってしまいました。それでも父も母も他の人と同じようなお葬式をして、親戚の人に型どおりのお悔やみを述べてもらうことが幸せだという考えなので、なんだか私もこの一週間は開き直って型どおりの返答をひたすら繰り返していました。

今とっても寂しい気持なのは、父が亡くなったからではなく、父の死を心から悲しむ人が誰もいないということです。私と弟が小さい時からずっとずっと仲の悪い家族でしたからそれは仕方のないことですが、とても寒い気持になります。私たち家族の歴史ってなんて重みがないんでしょう。振り返って懐かしむ思い出も何一つありません。その事実があまりに寂しい。
私が死ぬ時は形式だけのお葬式など要らない、家族が私の死を悲しんでくれればそれでいいととても強く思いました。夫と息子を大切にしようと心から思いました。日本のお葬式など見るのも初めての夫はひたすらビックリ。でもお互いに「葬儀は不要、ただ火葬にしてくれればいい」という意見で一致(笑)。ちょっと変ってる夫と息子だけどその存在に大きな安心感を覚えました。

それからこの一週間私を慰めてくれたのは形式上、毎朝唱える「般若心経」の教えです。私は仏教徒でもないですし、意味を知ったのは初めてです。でもなかなか共感できます。

以下、「般若心経」の現代語訳より一部抜粋

この世の中は、すべての形のあるもの(現象世界=色)と、感じること(感受作用=受)、想うこと(表象作用=想)、意志の力によって行うこと(反応=行)、目や耳、口などから受ける刺激を考え、認識すること(判断=識)、これらの5つの集まり(=五蘊・現象世界+精神的世界))によって、成り立っているのだ。そして、そのどれ一つとってみても、変化し滅びる性質を持っているので、永遠不滅のものはないのである。

この意味が解るなら、どんな苦しみも困難も消え失せるのだ。

心の世界についても同様で、楽しいと感じたり、赤いものを「これは赤いものだ」と見たり、お腹が空いたので食事をとったり、目、耳、鼻、舌などから受けるものを、「きれいな花」とか、「鳥の声」、「赤ん坊のにおい」、「にがい」などと感じ、想像し、判断することも、これまで生きてきた間の、自分自身の経験や知識から、あれこれ導き出された、一瞬の幻覚のようなものなのだ。つまり私たちの生活すべてにおいて、どれ一つとっても、それは永遠不変の実体ではない。

例えばあなたの「心」について言うならば、「心」が生まれたり、死んだり、汚れたり、きれいになったりする、ということは、言い方や行動として表れることはあっても、「心」というものが実体として、目の前に出ることはない。

形のあること、感じること、想うこと、意志の力によって行うこと、認識すること、これら五蘊は、「空」であり、 また、目、耳、鼻、舌、からだ、心、これら感覚器官は、一個人の姿形として、仮に現れたものであるし、色、音、におい、味、触るもの、一切の物事、これらの要素も永遠の実体ではなく、幻のようなものなのだ。

目に見える世界も、(同様に耳界・鼻界・舌界・身界も、)また、心の中で感じたり、判断したりする領域も、すべてが空である。

さらには、煩悩や無知というものも、絶対的なものではないのだから、「迷い」から抜ける、抜け出せない、という判断基準などあるはずもない。「さとり」とか「迷い」ということにとらわれなければ、「迷い」に「入る」とか、「入らない」とか、「さとった」、「さとらない」という考え方そのものが「迷い」であると気付くはずだ。

とらわれから抜け出せれば、「老いと死」という最大の苦しみからも解放される。また逆に言えば、老いや死といった苦しみは、尽きることなく表れるが、とらわれのない心の上では、それは苦しみの要素へと、変化しないでおけるだろう。

苦しみ(苦諦)や、その苦しみの原因を探すこと(集諦)、苦しみを抑制すること(滅諦)、苦しみを抑制してなくしていくこと(道諦)、これら「4種の真理の方法(=四聖諦)」にも、とらわれる必要はない。

智慧に執着しない、煩悩にも執着しない、さとってもさとりにとらわれない。とらわれを離れれば、得るという概念も、失うという概念も起こり得ない。そうして、いかなる場面においても、自身の力を発揮し、自由自在の働きで、苦渋の境涯にあるものたちを救済していこうと精進努力する。これが「空の教え」だ。

さとりを求め、苦渋の境涯にあるものたちを救済していこうと精進努力する人々(=菩薩)は、この般若波羅蜜多の教えを信じているからこそ、心が平安でいられるのだ。菩薩たちは、心を束縛するものがないのだ。とらわれや疑いといった、こころを覆い隠してしまうものがないので、何事も恐れることもなく、間違った知識や迷った心から遠く離れて、永遠なる心の平安の世界に住み続けているのだ。
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by xiaozhuzhu | 2008-10-27 23:59 | 国際結婚2008年の日記


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